そうだったのか、片淵初太郎像


 
 油日小学校の正面玄関を入ると「馬に乗った人」の彫刻ともう一つ木を彫った胸像(胸から上をつくった木彫)が置かれています。台座を見ると「片淵初太郎翁像」と記されています。

  「片淵初太郎さん」とは、どのようなことをされた人なのでしょうか。皆さんも疑問に思われていたのではな いでしょうか。そこで、いろいろ調べてみました。そうすると滋賀県教育会発行の『近江の先覚・第二集』に業績が紹介されていました。初太郎さんは、明治5年6月26日に五反田でお生まれになりました。子どもの時より勉強好きで行動力があり油日小学校、寺庄高等小学校、そして東京の大学で学ばれました。 ふるさとに帰ってからは、明治37年に油日村助役に翌年38年には村長に就任され、実に6期20年以上にわたって全生涯を油日村(今の油日学区)の村づくりにささげられました。
 初太郎さんの業績は、大きく二つあります。その一つは、油日財産区の基礎を築いたことです。これまで油日地域の山林の所有は官有林と言って国の財産になっていましたが、それを何度も初太郎さんが交渉され、払い下げを受けて村の基本財産のもとをつくり上げることに成功しました。そして明治40年には、村有林を約70ヘクタール(東京ドーム約15個分)に拡大し、これが今日までの油日財産区のもとになっています。山林の収益によって村の公共事業へ補助が安定して行えるようになりました。杣川の改修工事・道の舗装工事・消防施設や学校施設の充実・福祉事業などです。 
 片淵初太郎さんの業績はもう一つあります。それは干害復旧へのたいへんな努力です。今でこそ、油日学区の水田の灌漑は整い秋になれば、稲穂が実り、たくさんのお米が収穫できます。
 しかし、片淵初太郎さんの村長時代の大正11年から、三年間未曾有の干害がこの地を襲いました。
  もともと、この油日学区の土質は、ちょっと変わった重粘土質で乾燥すれば固まって亀裂ができ、田に水をためて置くことができなくなります。稲の花が咲き、実(米)ができる夏季は特にこの水が十分あることが大切なのです。ところが、今年の夏のように日照りが続くとたちまち田に亀裂が入り、稲は枯れ、美田はたちまち荒地となってしまいました。この災害の復旧工事に村長として東奔西走されたのが、片淵初太郎さんです。この工事には莫大なお金が必要とされました。当時のお金で77万円です。国や県の助成金などいろいろ工面しながら、また、いろいろな方からの寄附も募りながらこの難工事が行われました。初太郎さんは、工事の施行中も自らが現場を視察し、陣頭指揮をとってこの工事を見事完成に導いたのでした。荒地を再び美田にかえた初太郎さんの功績は誠に大きいものがあります。
  昭和8年4月8日。役場で執務中に倒れられ、帰らぬ人となられました。この時、「やっぱり疲れがでたのか」「本当に激務だったからな」と村のあちこちでささやかれ、初太郎さんの突然の死を人々は悼みました。あくまでも「ふるさと」のためにがんばる。そういった先人の心を私たちは感じ、次代に引き継いでいきたいものです。
                           引用:滋賀県教育会発行「近江の先覚・第二集」