最初は和田にあった油日小学校

最初は和田にあった油日小学校!

   昨年(平成28年)に油日小学校で最後まで残っていた木造校舎(裁縫室)が老朽化のために解体されました。私たち卒業生としては、油日小学校のシンボル的な存在であった木造校舎がなくなり、寂しい限りです。

 【昭和5年頃の油日小学校(油日尋常小学校)】〈写真 白木孝尚氏提供〉
  ※右端に見えるのが解体された木造校舎です。
  ※右下に鉄道境界杭も見えます。

【2016年に解体された最後の木造校舎の跡地】

  さて油日小学校が現在地に建てられたのは、明治31年です。その時の学校の名前は「油日尋常小学校」と言いました。では、それまではどこにあったのでしょうか。実は和田にあったのです。江戸時代から明治時代の中頃までは現在の和田地区が油日村の中心であったことが、いくつかの資料から想像できます。(甲賀市でも大規模な山城、和田城があったことも関係しているかもしれません。)
 明治初年から中頃までの創設期の油日小学校の様子を少し見ていきたいと思います。
 江戸時代の寺子屋が明治の小学校令によって、いくつかの「学校」に生まれ変わります。この学校が油日小学校の前身です。4つの小さな学校がありました。その4つの学校のうち、3つが和田地区に統合され、明治19年に簡易科尋常科和田小学校が誕生します。あと1つの学校は、滝分教場になります。簡易科尋常科和田小学校は明治22年には、尋常科油日小学校に改名されます。(しかし、この時点でも油日小学校は和田にあります。)
  明治25年には、尋常科油日小学校は油日東尋常小学校に滝分教場は油日西尋常小学校に改名されます。(これまでの流れは、文章だけでは、ややこしいので、是非、油日小学校のホームページ学校の沿革をご覧ください。)
  そして、明治33年に現在地に移され、油日尋常小学校として新しい歩みを始め、現在に至っています。

 ここで、1つの疑問が浮かびます。なぜ和田にあった油日小学校が現在地の上野に移されたのでしょうか。
 それは、新海道(現:県道4号線)と関西鉄道(現:草津線)の整備が関係しています。
  新海道と関西鉄道は、ともに草津と伊賀市の柘植をつなぐ道路と鉄道で、今も甲賀市の幹線で交通の要です。新海道は明治21年に、関西鉄道は22年に全線開通しました。まだ、この頃には油日駅は作られませんでしたが、この2本の平行して走る幹線の周辺には商店街ができはじめ、役場や駐在所は和田から移行し、銀行や郵便局も出来ました。これが、現在の上野商店街の市街地になります。こういった時代の流れの中で油日小学校も移行されたと考えられます。
 今も、油日学区の教育、文化、防災の中枢。そしてみんなが集う油日小学校。いつまでも私たちを見守ってほしいと願います。

 【草津線と隣接する現在の油日小学校】
  油日駅まで徒歩3分なので、校外学習に鉄道が利用できとても便利です。

【右~県道4号線(上記の「新海道」) 左~JR草津線(上記の「関西鉄道」)】

※和田のどの辺りに最初の油日小学校があったのが、突き止められませんでした。ご存じの方 は、ぜひ、油日小学校まで情報提供をお願いします。
※滝分教場のあった場所をご存じの方も教えてください。