油日を通った江戸時代の幹線、杣街道を探る
前回は、油日小学校が、新海道(現:県道4号線)、関西鉄道(現:JR草津線)、この2つの幹線の開通と関わって、和田から現在の地に移転されたのではないかというお話をしました。これらのことは明治時代の出来事です。 このことに関わって私が興味を持ったのが、明治の前の江戸時代の幹線はどのようになってのだろうかという点なのです。 まず、もちろん鉄道はなかったことは容易にわかります。では、新海道が出来る前の幹線は、あったのか疑問に残ります。ちなみに新海道という道のネーミングですが、もともとあった東海道(東海道湖五十三次で有名、土山、水口を通っています。)に対抗?する意味で名前がつけられたそうです。 話を江戸時代に話を戻しましょう。油日には、どのような昔の道が通っていたのでしょう。このことのヒントを甲賀市史第3巻 「道・町・村の江戸時代」から見つけました。この本の271ページ 図37「杣街道の復元ルートと沿道の村々」にその大まかな道筋が掲載されていました。 この資料から、江戸時代は「杣街道」と呼ばれた幹線が通っていたことがわかりました。 杣街道のルートは、現代の新海道(現:県道4号線)とは違います。杣川に沿いながら、時には交差しながら、ぐねぐねした道が敷設されていました。 この道には甲賀市史によると一定のルールがあるそうです。それは、宿場や集落を通って進んでいくということです。油日学区内の杣街道もこのルールに則っています。現在の大原市場→田堵野→北上野→上野(中筋)→五反田→柘植といったルートを辿ったようです。 伊勢参りには、東海道が主に使われたことは有名です。この杣街道も使われたのではないかと考えられます。 先日、このルートを歩いて主な箇所を写真に納めました。皆さんも一度、散策してみられてはいかがでしょうか。
※参考資料 甲賀市史編さん委員会 甲賀市史 第三巻 「道・町・村の江戸時代」 及び地図の引用
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