油日小学校に今でも残る懐かしいものを探す

そうだったのか油日 第5弾

 油日小学校に今でも残る懐かしいものを探す

   私が油日小学校で過ごしたのは、昭和35年~昭和40年の6年間です。この時の校舎は、まだ木造校舎でした。ちょうど入学した時は、給食が始まった頃なのですが、完全給食ではなくお弁当の日と給食の日がありました。しかも、給食の食材の一部、例えば、ほうれん草や白菜など家の畑で収穫したものを学校へ持っていたのを覚えています。
 今みたいに給食センターではなく、学校の中で給食を作っておられた(自校給食)のを覚えています。今考えてみると当時はまだまだ物が豊かではなかったのでしょう。(6年の修学旅行でも宿泊する宿屋に経費をちょっとでも安くするためにお米を持参しました。)  さて、今、校舎の周りを見渡してみても、当時を思い出すものはほとんどありません。
何年か前に二宮金次郎の像を紹介しましたが、それ以外はなかなか見つかりません。
 かろうじて人工物で二つ見つけました。一つはアーチ型の雲梯(その当時はたいこ橋と呼んでいました。)でもう一つは運動場の西端にあるバックネットが残っていました。

○アーチ型の雲梯
 たしかこの雲梯は、私が低学年に作られたものだと思います。休み時間にサーカスの綱わたりのようにバランスを考え歩き、スリルを楽しんでいた思い出があります。その他にメリーゴーランドやブランコなどいろいろな遊具がありましたが、その当時の遊具はこれだけが残っています。


○バックネット
  少なくとも昭和30年代にはあったと思います。休み時間や放課後、また、一度家に帰ってから、再び運動場に集まり、このバックネットの下で日が暮れるまで野球ごっこをして遊んだものです。でも、野球といっても今のような少年野球ではありません。
 三角ベースと言って、ホームベース→一塁ベース→三塁ベース(二塁ベースを省略)→ホームベースの簡単な形になっています。ゴムボール一つあればよく、バットの代わりに素手でボールを打って遊んでいました。私たちの時代はサッカーより野球(ソフト)が人気でプロ野球選手のカードがおまけに入っているキャラメルや棒に「ホームラン」と書いてあれば当たりでもう一本もらえる棒アイス(ホームランバーと言って今でも発売されているところがあるそうです)が駄菓子屋さんで販売され、人気でした。バックネットはPTAの奉仕作業で何度も塗料が塗り重ねられ、今では、分厚くなっています。(歴史を感じます。)

   私が油日小学校で過ごしたのは昭和30年代。でも、人によって様々な年代の思い出が蘇ってくるのではないでしょうか。その一つのきっかけとして当時あったものが今の小学校にも残っているのか探してみるのもよいでしょう。そこから小学校生活のいろいろな記憶が頭の中に再現され、より母校への愛着が生まれるのではないでしょうか。