多羅尾って 多羅尾小って こんなにいいところ!! ~多羅尾questionにチャレンジしてみよう~ 【第1問】378人(2015年11月末現在)がお住まいです。では、昭和初期の頃の多羅尾の人口は? 1.約200人 2.約500人 3.約1000人 【第2問】多羅尾光俊が助けた武将はこの3人のうち、誰? 1.織田 信長 2.徳川 家康 3.豊臣 秀吉 【第3問】旗本とは、200石以上1万石未満の石高を与えられ5000家を超えています。1000石以上の旗本は全体の5分の1以下。その上、領地を与えられているのは少数派でした。では、代官多羅尾純門(ひろかど)の石高は? 1.10万石以上 2.1000石 3.1万石 【第4問】明治時代になるまで、多羅尾家当主は世襲代官として10代にわたって多羅尾に陣屋を構えましたが、治めたのは、近江はもちろん、河内・大和国とどこ? 【第5問】岩洞山不動寺は廃寺となりましたが、本尊の不動明王が今も祀られています。この像を刻まれ、お据えになられた方はどなたでしょう? 1.弘法大師 2.最澄 3.親鸞 さて、5問の答えは… 【第1問】3 【第2問】2 【第3問】1【第4問】伊勢 【第5問】1 1字1村の多羅尾は、一見山奥の寒村に見えますが、古くより京都から御斎峠を経て主要道「京街道」を中心として甲賀、伊賀上野、南山城方面を結ぶ道路が交差する要衝として栄え、昭和初期の最盛期には1,000人近い人々が暮らす大きな集落でした。今では7名の児童数ですが、昭和5年では178名の児童数でした。 また、多羅尾家は代官職を世襲し、領地に居住する旗本という2つの意味で特別待遇を得ていたと考えられています。代官の任命には多羅尾光俊の功績の大きさがあります。「神君伊賀越」は、忘れてはならないものです。天正10年6月の本能寺の変の際、和泉国の堺にいた徳川家康の逃走を助け、伊賀甲賀の道中警護に尽力したことが、江戸時代の多羅尾氏の処遇に大いに影響しました。現在では、多羅尾代官陣屋跡は公開されているので、ぜひ、多羅尾の地にお運びいただき、歴史を感じ取っていただければ… ★自然いっぱい、歴史いっぱい…心なごみ、心豊かに 自然の美しさに、思わず、うっとり 歴史の深さに、興味しんしん 学校2階からの雪景色 鶏鳴の滝 高宮神社 ★おいしいものいっぱい…おいしい空気、おいしい水、おいしい伝統食に舌鼓 蒟蒻作り 朴葉もち作り 【多羅尾豆知識】朴葉もちって? 多羅尾の山々に自生している朴の木の葉で包んだおもち「朴 葉もち」を「かしわもち」と呼んでいます。 江戸時代の多羅尾代官所では、朴の木を茎ごと刈取り、朴葉を 茎から取らずにお餅を包んで神棚に供えたと伝えられています。 ★学校と地域が「タックル」組んで、元気いっぱい 地域の子ども、特認校制度活用の子ども、みんな、多羅尾の子!! 地域の宝!! ーあったかい目で、やさしい心で、みんな包まれてー 第57回 多羅尾学区体育大会…子どもも大人も熱戦繰り広げた1日 【多羅尾豆知識】小学生の障害走には、タイヤ乗りがつきもの!! みんな、タイヤ乗り上手なんですよ。
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